昭和44年05月17日 朝の御理解
御神訓 一 道教えの大綱
「今より何事にも方位は忌まず、わが教えの昔に帰れよ。」
今よりと言う事。今よりという事。これはこれからという意味じゃないと思うのですよね。例えばこうして今こうやって御教えを頂かれる。今日からはという意味じゃないと思うです。今よりというのは例えばその御教えの前の前のところを、また例えばみますと「大地の内に於いて、金乃神の大徳にもるるところはなき事ぞ」と。信心をさして頂くようになって段々教えを頂くとそこ辺が分かって来るね。大地の内に於いて金乃神の大徳にもるるところはなき事ぞと。ここに金乃神とこう言うておられますね。
当時今でもそうですけれども、やはり金神遊行を信じた時代ね。金神様がずっとこう遊行される。回って歩かれる。ですから今金神がどっちの方角におる時には、そちらの方に向かっていけないと、金神封じをしたり、金神様を避けて通うらなければならないと言った様な事を申しました。今でもやはりそれを言う人がまぁ沢山有りますよね。だからそういう意味でこの金乃神と、天地金乃神という事を、金乃神と仰った時代があるんですね。金神様の御信心に教祖の信心がいわば始まっておりますから。
ここに金乃神と言う風につかれたもんだと思われます。もう既にここで仰っておられる金乃神というのは、御性格はもう天地金乃神ですね。天地金乃神その天地金乃神それを、砕けて言うと天地の親神様だとこう言う風にいつも申します訳ですね。この天地の親神様のおかげを頂かなければ、実は私共は生きていく事は出来んと、この神様のおかげを頂かなければ、それこそ一分たりとも一秒たりとも、立ち行かないのだと言う様な事訳。いわゆる道理。それは真理でもある。事訳。真理。
真理とは本当の事と言う事なんです。この様に間違いのない本当の事はないと思うんです。この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだという思い方。これはもういつの時代になってもこのこの真理だけは、この事訳は変わらない。ですからそういう大変な事を分からせて頂いたところから始まるのです。今よりというのはね。金光様の御信心を何十年しとりましてもですね。ここのところをよう分かってない人が沢山あるですよ。お話しを聞いて分かっておるけれども。
分かっておるけれどもここんところをひとつも行じてない人があるんです。これはもう信心が分かっとらんのも同んなじですからおかげを受けんです。「大地の内に於いて金乃神の大徳にもるるところはなきことぞ」とそこでです。「御地内をみだりに穢すなよ」とこう仰るが。もう穢せと言われても穢されんという信心が、生まれて来なければならんのです。そういう天地の親神様の大徳。大徳の現れなんですから、そこをみだりに穢すなよとこう仰ってる。穢せと仰っておっても、仰られても穢されんという事になる。
まぁ言うならば自分が日々拝んでおる、」その神様のお姿にです。汚いものをもって穢したり汚したりはとても出来ないというのが当たり前。例えて言うと、あのう江戸時代にキリスト教が、時の政府の圧迫を受けておった時代。キリスト教信者を全部罰したり、殺したりしたんですねえ。改宗すれば許してやると。その印をその証を立てるために、踏絵というものを時の政府が作りました。それはキリスト教の絵姿というものを、鋳物かなんかですね。あれは作くってそれを踏ませるんですね。
けれどもそれを、日夜信仰し日夜拝んでおるそのイエスキリストの姿というものをですね。もう踏めん訳です踏まれない。拝んでおる対象ですから。だからこれはまだ改宗していなだというて、罰それこそひどい処刑この刑を受けたんですけれども、それでもねそれでもやはり踏絵を踏まなかった者がおいかったというんです。私はこれはキリスト教のその信者のそのそういう一途なものは、そういうものは尊いと思うですねえ。私共が例えば天地の親神様の信心をさせて頂いておる者がです。
御地内を穢せと言われてもです。とてもどげん思うても穢されんと、いう位なものが生まれなければ駄目ですよ。金光様の御信心はね。久留米の笠さんじゃないですけれどもね、自動車である所へ向かって急いで行きござった。途中でその尿意をもようした、便所へ行くごとなった。とうとうそのまに家まで引きかやしてから、そのうとと言うんです。ここは大小便で穢すと、そういう意味だけの事じゃないですね。意味はいろいろまた深い事でございます。
けれども生神金光大神天地金乃神と言うて、こう天地金乃神様を拝んでおる者がですねえ。天地をみだりに穢されんごとなったいゆう位なものは、出来なければ先の方があやふやになるです。やそ教の人達がそのやその姿というものを、踏絵にされて前に出されてもです、どうしてもそれがもうそれこそ足が震うように、その上には足を上げられなかった。足をあげなかったら踏まなかったら。ひどい処刑の合う事は分かっておるけれども、命を取られる事が分かっておるけれども踏まなかった。
私は本当にそのその位な一途なものがなかならければ、信心は本当な信心では頂けんと思うね。だからここんところを、まぁ理屈を言わず理屈に走らずです。これは実際問題としてですね。そういう実感がお互の生活の上に、現れて来なければいけないと思うのですね。いつか久富繁雄さんのお話を聞いた時に、肥しを畑にかけられる。そういうそれがいけないと仰るのじゃないんですけれど、だからそこもですけどそれでもね、それでもやはり神様ご免下さいご免下さい。と言うてから肥しをかけますとこう言われる。
その実感だと思うですね。大地の内に於いて、金乃神の大徳にもるるところはなき事ぞ」という事が分かるという事。分かったらどういう事になるかと言うと、とても御地内をみだりに穢せと言うても、穢されないと言う様な信心がね、そういう事を分からせてもろうた。そこからです。そこから何事にも方位は忌まずというところが、はっきりして来る訳です。この天地の親神様のおかげを頂かなければ、ここ一寸実を言うたら動きもせん、生きていく事すらも、出来ないのだと分からして頂いて。
そういう例えは天地の中にです。方位を忌まず。あちらの方位方角はいけんとか、よいとかと自分勝手な事を言う様な事をせずに、それによって自分の心を忌まずという事は、己の心と書いてありますね。忌中の忌ですねえ。死んだ時に使うですねえ。ないなに忌といった。30回忌35周、35年ですかね、仏教で言えば例えば17年なら17回忌と言った様に申しますその忌です。その自分の心をそういう事によって穢したり、忌まずという事は、それに引っ掛かってはならないとこういう事なんです。
新婚旅行に立たしてもらう。昨日テレビで言ってましたね。なんとかち言う。なんちゅうかなありゃ、昔ああのうお花さんをしよった人が主演しとる映画があったんですよ。なんか。それにあうの言ってますよ。息子達夫婦が新婚旅行をするのに。九州の方へ行くはずじゃった。京都かどっかの人ですから。そして方、ほう方なんちゅですか方位さんががね。方位を見る人に見て貰ったところが、九州の方の方角はいけないっち。そいで山陰の方にその旅を変えたと。
旅行の行き先を変えたと。ところがそのうお菓子屋に、なんかお祝儀の時頼んでおったそのお菓子がですね。お菓子の方でもその精進物と、御祝儀物と両方頼れとった訳ですよね。それをお菓子屋の方が間違えて、そのう精進物の方を御祝儀の方の引き物へ持って行った訳です。そこの両親が大変心配して呼び付けてですね、まぁ昔お花さんをしとった人、なんちゅうとですねその人、そこだけ私見たんですからよう知りませんけども。呼び付けてから大変しかる事がありますね。
ちゃんともう何からかにまで御祝儀物をするにも、黄道吉日を選び結婚式も九州に行くはずのつば、九州は方位がいかんというから、わざわざ山陰地方に変わって、そしてこんなに水も漏らさんような、その夫婦の門出を祝福しながらですねしておるのに、そのう何という事か。ひきものに持ってきたお前のところのお菓子は、精進ものじゃなかったかと。黒水引がかけちゃた訳です。そこんところをお花さんになったなんとかちゅうとが、お詫びに行っとるとこだった。
けれどもねここんところでですね、例えば方位を忌まずと仰るがその。例えばそれは九州地方であろうが、北海道地方でもよかんで。今日の御理解頂くと、そういうところに心を使うちゃならん。けれどもです。信心しておっても、ちょとあっちの方は方角が悪かっちゃなかですか。方角だん見たっですかと。と隣近所から言われると、ほんにそらそうかも知れんと言うて、心を汚す事がいけないんだと。それが今私が申します。大地の内に於いて金乃神の大徳に漏るところはなき事ぞと言った様なものが。
これにちゃんと分かっておれば、誰が何と言うたって全然これがが汚される事はないんです。けれども信心しておっもです。いわゆる御地内をみだりに穢すなよと言った様な信心が出来ていない。平気で穢しておる位の天地金乃神なもんですから、それがやはりゆるいで来る訳です。人からちょっとつつかれるとはぁ方位をみた方がいい、普請をするのにもやはりそのなんとかを見て貰わにゃいかんとか。結婚式をするにもやはりよか日を選ばないかんとか言った様な、もう愚にもつかない事。
しかもそりゃ本当言うたら御無礼にすらなる事なんですね天地に対する。ことを平気でやっておると言う様な事。まぁ話は余談になりましたけれども、今のそのテレビ映画で見ましたその事がですたいね。その為にわざわざ方位を変えて、山陰地方に旅行をすると。ところがそこへですねえ。幸か不幸かそこへ御祝儀物のおかげ届かなならんのが、精進物の御菓子が届いた。これは私は気にしなければいけないと思うね。これは迷信じゃないです。天地自然はこのようにして私共にものを言いかけて下さるのですよ。
まぁ例えて言うならね。合楽流儀に言うとそうです。そこでお取り次ぎを頂いてそこんところをねお願いしていく。その事をですね。神様がね、そういうた自然の中にも、こういうた不吉な事にもなろうとしておるぞと、教えて下さっとるその声が聞けるようにならにゃいけん。これは迷信じゃない。けれどもそれは一般の人は迷信と言うですねぇ。おかしいですねぇ。今よりは何事にも方位を忌まずという、今よりというのは私は只今申しますように天地の事訳。天地の道理。
天地の親神様の大徳に漏るる事はないという事を知ったら、そこからからですそこです。方位を忌う方位を見たりね方位に忌ず。自分の心を汚す事があってはならないぞと。「わが教の昔に帰れよ」我教えの昔に帰れよという事はならどういう事かと。これはまぁ厳密に言うたら大変難しい事だろうと思いますね。わが教えの昔に帰れよ何千年も例えば前当たりは、それこそ純心無垢子供の様な生活であったろうと思われますね。想像されます。そこから色んな勉強学問と言った様なものが段々身について参りました。
学問をしていろんな事が詳しくなりまして。そして人間が作り上げたいわば学問。いうならこの易学と言ったようものも、やっぱりそのひとつであります。易をたてる。そういう事が段々まぁ勉強はせんでも、そう言う事が人から聞いてから分かるようになる。そういうもののなかった昔という事にもなるでしょうね。そういうものがなかった昔、そういう事がなかった。けれども易学なら易学が出来てきたら、さぁもう自分という者が、いよいよ動けなく動きがとれなくなってしまった。
そういう窮屈な事になって来る。勉強っていうのは大体だから、そういう意味合いで学問を身につけるという事は、窮屈になるのですねえ。浅い少しばかりの学問でいろんな事を決めたりしてしまいます。そういう事のなかった昔という事でございましょうけども。まぁここでは私は教の昔に帰れという事はね。拝む事を知らなかった昔に帰れという事だと思う。拝む事を知らなかった昔。いわゆる自分にですね、あぁ有りますようにこう有りますようにと言うて拝む。
そういうあぁ有りますように、こう有りますように。と言う様な願いを持たん先。例えば結婚式なら結婚式を挙げようとする。そこから何の日じゃろうか。何の日がよかろうかという事ですから。そういう事を思い立つ前。無関心であった時という事なんです。それを少しは意味が違うかも知れませんけれども、俗に知らぬが仏とこう申します。知らぬが仏。何にも知らないという事はもうそのままが仏様なのだ。神様と同じ事なんだ。言うなら、赤ん坊がもう神様と仏様と同んなじだというのと同んなじです。
純心無垢なんです何んにも知らないんです。知らぬが仏道を歩いて行きよって先の方にね、こうゆう怖いもんが出て来るとか。なんとかいう事を知ったら足が震うて、もう前には進ません。けれども知らんであれば平気の平佐である。平気でそこを通っていく事が出来る。信心というのはですそういう心を養っていく事です。信心とはそういう心。神様のお守りを頂いておるんだから。私はどこにおっても、神様の御守護を受けておるんだからという安心の心を持つという事は、それは何にも知らなかったという事と同じ事。
いわゆる「知らぬが仏の心」である。神様の御守護を受けておるんだと、理屈には分かっておっても、不安でたまらないというところに、まぁだ本当の純粋な信心が身についてないという事になって来るのですね。今日のところはね。まぁ何と申しましょうかね。皆さんにお話ししますところは、お道の信心の教学以上の教学です。そういう本当の事、本当の事訳をです分からしてもらって、それに近ずかせて頂く信心を身につけていかなければいけんのです。私共はそこを目指すのです。
為に私共が本気で「大地の内に於いて金乃神の大徳にもるるところはなき事ぞ」という事をです。よう分からしてもろうてこれは修行としてです。例えば修行としてでも、御地内をみだりに穢すような事があっちゃあならん。ここを偏見なものにしてはいけませんよね。そりゃあぁた耳納山のとっぺんに登っとってから、便所に行こうごとなったけん、又合楽まで降りてこなならんと、いう意味じゃなかですからその精神です。そりゃもうここに便所があるという。
ほんな筑後の連れ小便じゃなかばってん、ずらぁと並んでから小便しょうと、このごろ私は見付けたある人達。どうした馬鹿じゃろかと思うてから、おごり行こごたばってん。あんまり黙ってから、まぁこりゃ教えが徹底しとらんなと私は思うたんです。しかも永年信心しする人達ですよ。そこに外に便所がちゃんとあるじゃない。それあすこ線路ばた並んでずらぁと、いわゆる放水をやってるんです。そげな心掛けでね。金光様の御信心がおかげ頂けるはずがない。本当の信心が分かっとらん証拠なんだ。
平気で唾を吐いたりねぇ、それこそ吐かんだけじゃない。人が汚しておるならそれを清めていこうというような信心。だからそういう心になったら、おかげを受けておるでしょうが。私がいつもお話しする福岡の真名子さんなんかそうだったね。永年の蓄膿症がですね。その話を聞いてあぁそうかな。今までは相済ん事じゃったなぁ。床屋さんですから汚い水なんか、表へパーッとふりよった。とてもお粗末御無礼な事しよったなぁ。と思うてその話を聞いて荒戸の教会出てから。
すぐんところで子供が便所をしちらかしとるとに出会ったんです。ですからすぐ教会に取って返してから、それをきれいにお掃除をして、そしてバケツを借って来て水で、それを清めて何も知らん氏子があなたの、お体をこうして汚しておるという事をお詫びされたら、それきり鼻がストストするごとなったという。それから、のお婆さんは大変なお徳を受けられましてね。もう亡くなられましたけれども。真名子さんというお方でしたが。いかにそういう心がけが天地に通うかという事が分かるでしょうが。
永年のその蓄膿症という、中々手術してもようならんような病気がですね。その事でいわゆるバケツとお掃除道具をうちに返しに行ってから、帰って来る時には、もう鼻がストストになっとった。そういう例はいくらも有ります。ですから金光様の御信心さして頂くなら、ここのところを先ず大地の内に於いてこう言う、ここのところの御神訓などを、ようく身につけさして分からしてもろうて、本当に金光様の信心の。例えばなんちゅうかね金光様の信者は、もう絶対御地内やらは穢さんですもんねと。
周囲の者が認識する位にですね。ひとつ徹底しなければいけないところです。最近はそこんにきが非常に疎かになっとる。そこが分からなければです今よりという事が分かってこん。今より何事にも方位を忌まずね。そうゆう事が分かるから、天地の親神様のお恵みとか、おかげとゆうものが、天地にへんまんしておる事が分かるから。そこに例えばけちをつけるように方位を言うたり、日柄を言うたりする事は、どのような大変なお粗末御無礼かという事が分かる。
又はどのような事を聞いても、例えば言われても、自分の心をけがす穢す事がない。わが教の昔に帰る事が出来るのです。わが教の昔に帰れるという事は、こりゃさぁ知らぬが仏であるというような心の状態と同じ事。心が仏の状態神様の状態。人から中傷されても、そういう事で自分の心を汚したり、惑わしたりする事のないだけの、確固たる信念の上に立った信心が、生活が出来るのですよね。
どうぞ。